『どちらでもよいこと』

ずいぶん昔の話になるけれど。
新入社員の頃、当時の呑み友達と、こんな議論をしたことがあった。

「ある国の言葉を、他の国の言葉で置き換えることが可能か否か?」

その友達は、不可能だと主張した。
僕は可能だと主張した。

学生時代に何十カ国も旅したというそいつは、こう主張する。
その国々それぞれの文化背景があり、別の国には存在しえないものも多数ある。
だから無理だ。

僕は言う、言葉の可能性は無限であり、その国のことを理解しうる表現は必ず存在する。
だから出来るはずだ。


…今の僕だったら。
この問題で、どちらかの側につく前に、逆にこんな問いを出すだろう。

「言葉を聞いた全てのひとは、同じ言葉を聞いて、同じように感じるだろうか」

この問いに「違う」と答えるのはたやすいだろう。
だとすると、他の国の言葉だったら、どうなんだ?

「同じ国の言葉ですら、同じように意味が通らないのだから、置き換える言葉も存在しない」

となるだろうか。

「違う国の言葉であっても、同じ国の人が想像しうる程度に、言い換える言葉は存在する」

だろうか。

少なくとも、同じ理解を得られないのだから「言葉」をまったく使わないという人はいないだろう。
同様に、自分が発した言葉が、まるっきり自分の感じたとおりに他の人に伝わると考えるべきでもない。

そう考えると、冒頭の問いは、全く意味のないこと。
どちらともいえるし、どちらでもよいことだ。

ただ、この議論そのものを通じて、
知らない国の難解な概念を知ることができたり、
豊かな日本語の微妙な表現を知ることができたりしたら、
そこで議論したことには大きな意味があるだろうな。


そのときは酔っぱらっていたし、そこまで考えもしなかったけどネ(^^ゞ
でもそのときの記憶は、今でもちゃんと生きているよ。

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